日出づる国の片隅で。

本の話から日常の話まで

完本 1976年のアントニオ猪木

プロレスはスポーツではなく筋書きのあるショーである。が、アントニオ猪木は生涯で3回だけフェイク(インチキ)ではなくリアルファイト(真剣勝負)で闘ったことがある。いずれも1976年のことだ。

1976年以前のアントニオ猪木には生涯の敵、ジャイアント馬場が大きく立ちはだかっていた。共に力道山に見出され弟子となったものの、すぐにアメリカ修行に出て人気者となる馬場に対して、力道山の付き人として厳しくされた猪木。力道山の生前に二人は16回対戦し、すべて馬場が勝利している。その後、猪木が新日本プロレスを、馬場が全日本プロレスを立ち上げることになるが、力道山のプロレスラーとしての遺産はすべて馬場が引き継ぐこととなる。米国NWAとの太いパイプを持つ馬場の全日本には有力な外国人レスラーが来日するが、そうしたルートのない猪木の新日本には対戦相手となる外国人レスラーが来ない。そこで猪木は米国では全くの無名のタイガージェットシンに、試合のない日に百貨店前の路上で襲撃されるという警察沙汰の事件をおこす。もちろん、話題作りのためだ。そしてリングではタイガージェットシンがサーベルで襲いかかるというシナリオを描き実行していく。タイガージェットシンという悪役スターを作りあげ、それをた叩きのめすというストーリーを作りあげたのだ。そしてその次には、国際プロレスのエースであったストロング小林との日本人同士のエース対決を画策。ストロング小林に「日本一のレスラーを決めよう」と馬場と猪木に挑戦状を叩きつけさせる。猪木はもちろんその挑戦を受け、馬場は苦々しく拒否する。異常な盛り上がりをみせたこの猪木対小林戦は大いに盛り上がり、猪木の勝利に終わる。その猪木に挑戦状を叩きつけてきたのは、かつての兄弟子・大木金太郎(金一)であった。大木は馬場の全日本に不満を持ち馬場の下を離れていたのであるが、猪木はこの大木にも勝利する。アントニオ猪木の快進撃である。これに対してジャイアント馬場は、プロレスの最高権威として認められてきたNWAの世界チャンピオンになることで、世界ナンバーワンの称号を手にいれることになる。猪木がいくら馬場に挑戦状を叩きつけようとも、NWAがそれを認めないという口実で馬場はそれを無視する。苛立つ猪木はNWAを超える権威を纏わなければならない。猪木がボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメッド・アリに挑戦状を叩きつけた理由はそこにあったのだ。

1976年、当時「世紀の凡戦」と揶揄された猪木対アリの一戦は、猪木にとって初めてのリアルファイト(真剣勝負)の試合であった。当初、プロレス(ショー)をやるつもりで来日したアリに対してリアルでの対決を主張した猪木にアリはがんじがらめのルール改正を主張。猪木はそれをすべて飲んだ上での対戦であった。リアルファイトであったがために、プロレスを見慣れていた当時のファンにとっては物足りない内容に見えたのだろうが、パンチひとつ当たれば終わりという過酷な戦いの評価はいま非常に高い。結果、猪木はアリと引き分けたものの、その戦いを酷評され多額の借金をかかえることとなった。そこに韓国遠征の話が持ち上がる。「韓国の馬場」と呼ばれていたパク・ソンナムと戦ってほしいという依頼であった。契約はシングル2連戦の予定であった。1試合は猪木が勝ち、もう1試合はパクが勝つことに。ところが猪木は負けることを嫌った。日本でテレビ中継されることが決まったからだ。アリと引き分けた猪木が「韓国の馬場」に負けるわけにはいかない。猪木は断固負けを拒みリアルファイトになってしまったのだ。猪木は相手の目に指を入れるという壮絶な試合となり、リング下に蹴落とされたパクは2度とリングに上がってこなかった。2戦目も負けを拒否した猪木に対してパク側プロモーターは断腸の思いでパクのリングアウト負けというシナリオを受け入れ、試合は何事もなかったかのように進み予定通りパクのリングアウト負けで終わった。事件はその後に起こった。韓国の英雄が憎い日本人に2度続けて負けたことに激怒した観客が控室まで押しつけてきたのだ。猪木は着替えもそこそこにホテルに戻りチェックアウトを済ませ逃げるように大急ぎで空港へ向かった。わざわざ韓国まで出かけ、試合を行いノーギャラで帰国したのだ。猪木は再びリアルファイトの代償を払ったのだ。

そして12月。新日本プロレスの事務所にパキスタン大使館から電話が入る。いまプロレスが大人気のパキスタンで最も有名なプロレスラー、アクラム・ペールワンと戦ってほしいという。2試合で3000万円というギャランティは、アリ戦で多額の借金を背負った新日本プロレスには焼け石に水だが悪い話ではない。そしてパキスタンへ乗り込んだ猪木は、今度は逆にリアルファイトを仕掛けられることになる。因果応報である。が、3度目のリアルファイトを戦う決意をした猪木は、またも相手の目に指を入れ、ダブルリストロックという技でアクラムの左肩を脱臼させ靭帯も損傷させ、ドクターストップによる勝利を収めたのである。

1976年、アントニオ猪木はリアルファイトの3試合を闘った。その結果、莫大な借金を抱え、ソウルでは一銭ももらえないまま逃げ帰り、パキスタンでは逆にリアルファイトを仕掛けられ肝を冷やした。以後、猪木はリアルファイトを行うことは二度となかった。またそれ以降、猪木は離婚、事業の失敗、政治家への転身と落選というどん底の人生を歩むこととなり、プロレス時代は終わりをむかえることになるのだ。

著者にとってデビュー作となるらしいのだが、かなり読み応えのある力作で、プロレスにさほど詳しくない僕でさえついつい引き込まれてしまうほどに文章がわかりやすく簡潔で巧い。間違いなく今年読んだ本の中では秀逸の作品、珠玉のノンフィクションだ。

<「完本 1976年のアントニオ猪木柳澤健著 文春文庫>